そんなふう 64
今月で48歳になり、更年期に入っていることを実感として伴ってきた。白髪が急にまた増えたし、あちこち身体の不調が続いていた。ずっと何ヶ月も痛いと思っていた右肩の痛みは、ただの肩こりだと思っていたが頚椎炎だと最近わかったり、朝身体が鉛のように重くて起き上がれないのは疲れているせいだと思っていたら、貧血と判明したりした。喉の奥がずっと詰まってるような、つかえてるような違和感があり、病院で診てもらったら咽頭異常感症と診断されたりしたこともある。外傷はなく、腫れもないのに違和感を感じる症状だ。治療方法としては漢方を処方されたが、あまり自分には効かなかった。ストレスとか年齢が起因するらしいが、どちらもだろうと諦めた。以後、良くなったりまた詰まった感じがここ2年くらい繰り返している。でも新型コロナがここまで流行すると、この喉の違和感と息苦しさはもしかして、と思わなくはなく、実際いつもよりもつらかったので近所の病院で先月診てもらった。結局腫れもなく、呼吸音もきれいだからやはり異常感症だろうということだった。それにしてもここしばらく詰まり感がひどかったのは、やはり自分でも気づかないうちにいまの状況に抑圧感を感じているからというのもあるのだろう。
ここ数日、20代のある時期のことが頭の端に立ち上る。勤めていたスタジオをやめて、フリーランスになったあとの数年間。仕事は少なく、毎日自分を持て余し、人にもあまり会わなかったあの頃。
近くの小学校が解放しているプールへ行き、泳ぐことと、スーパーへ食材の買い物に行く、現像所にフイルムを持っていく、くらいしか外界との繋がりがなく、めりはりのない毎日を過ごしていた。一人暮らしで定職についてないからいくらでも夜更かしできるし、朝はいつまで眠っていても誰にもなにも言われない。なるべく規則正しい生活をしようとは思うものの、気がつけば生産性のない1日が過ぎていき、夕方になると、きょうも誰とも会話しなかったなと思い、激しい虚無感で自責の念が湧き上がるという、そんな鬱々とした日々。人に会わなくて仕事が減っているから当時のことを思い出したのかもしれない。
いまは展示の仕事や新規の撮影はほとんど延期になったものの、ありがたいことにやるべき仕事はあるし、なかなか手付かずだった新規の作品制作にもやっと取りかかれる状況ができた。それに家事育児もあるからあの頃のように暇ではない。それでも、急に手が止まってふとこれに何の意味があるのだろう、と、とても後ろ向きな気持ちになって自分のつくっているものがものすごくつまらないものに見えて落ち込んだりする時が最近時々ある。毎日そんな気持ちだった20代の自分の記憶とリンクして、20年も経ってなにも変わってないような気がして呆然とする。
そんな時、娘の顔を見ると、時間の経過を目の当たりにして少しほっとする。あの頃と違うとはっきりと存在で証明してくれる人がいる。彼女の前で怠惰な自分を見せたくなくてなんとか自分を律する。
先週、久しぶりに大雨が一日中続いたが、翌日の空は格別に澄んでいて、吸い込まれるようだった。ちょうどいま住んでいる地域の市議会議員選挙の日だったから、投票所になっている近所の公民館まで散歩しながら向かった。何度も空を見上げては新緑に光が反射する様子に目を細め、久しぶりにゆっくり家族で散歩することを楽しんだ。公民館の向かいに小さな公園があった。誰もいなかったから立ち寄り、ひとしきり遊具で遊んで娘も嬉しそうだった。
ふと、9年前は快晴の日にも外をのんびりと散歩できなかったことを思い出した。あの頃とは状況は違うけど、空の色の美しさに見とれながら、同時に胸がつかえるような感じがあの時の記憶を引っ張り出した。いまは会いたい人に会えない代わりにこの散歩を楽しもう、と思いながら春の空気を吸い込んだ。
今日、世界の都市で大気汚染が大幅に改善されたとネットニュースで知った。新型コロナで外出禁止令になったおかげだそうだ。自明のことだが人間が動かないことは地球環境に役立っているわけだ。今後の在り方について、娘の後ろ姿を見ながら考える。この人が大人になった時、世の中はどうなっているのだろう、と思うと責任を感じる。
大雨で流し出されたあとの、透き通るような青さに包まれた今日の日の幸福感を覚えていなければ、と思った。