そんなふう 56
小学生だった頃の自分は、夏が永遠に終わらないかのように長く感じていたが、大人になってからは逆に年々あっというまに過ぎ去って行くようだ。今年の夏は梅雨が長かったせいもあり、格別短く感じた。その上3歳の娘の成長ぶりを目の当たりにしていると、日々更新されることが多過ぎて数日前のこととは思えないほど時間経ったように感じることもある。しばらくはとれないんじゃないかと思っていたオムツも、保育所の先生から明日からパンツにしてみましょう、と言われ、とりあえずパンツを履かせてみた。数回失敗したけれど、それで学んだのか、その後は漏らすこともなくなった。すぐに慣れてオムツはいやがるようになり、夜おねしょをすることもなくあっけなくパンツに移行できた。もうオムツ替えのお世話ができなくなるのか、、と少しの寂しさを感じたが、なぜか今でも大だけは怖がってトイレで排便できない。パンツの中にしてしまった時、ほら、汚れちゃうからトイレでしようね、と言ったことを気にしているようで、トイレでも、パンツでもできなくなってしまった。すっかり苦手意識が根付いたようで我慢するようになってしまい、それでは身体にもよくないということで、おねしょパッドを使ってみたら、それで立ちながら用を足すようになった。そんな状況なので完全にオムツがとれたとは言えないのだが、それくらいの変化の方が、自分も伴走しやすい。それもそのうちに卒業できるのだろうと気楽に思うことにした。
お絵かきは殴り書きのような線の集合体しか描けなかったが、先日丸が描けた。それ何?と聞くと、あんぱんまん、と言う。おめめ、と言って丸の中にさらに二つ丸を書いた。絵らしいものが描けたのが嬉しいようで、何度もアンパンマンを描いていた。写真に撮られるのを嫌がるようになって顔を手で覆って隠したり、自分がiPhoneでメールチェックしていると、それけしてよ、いっしょにあそぼう、と言うようになった。そう言われるたびに自分のスマホ依存を指摘されているようで、なんだかバツが悪い。飛行機の離陸の際に必ず怖がって泣いていたのが平気になったし、海に連れて行ったら思いのほか大喜びして驚いた。普段は家の裏の川で水遊びすることが多いけど、物心ついてから海に入ったのは初めてで、怖がるかと思ったら、波の動きに自分が飲み込まれるのが楽しかったようだ。存分に楽しんでなかなか帰ろうとしなかった。
語彙も増えて数ヶ月前よりも随分と滑らかに会話できるようになった。先日トイレで用を足すときに便座に座らせてから少しの間その場を離れたら、ぽつりと「さみしい」と言って驚いた。どうしたの?ひとりじゃいやだった?と聞くと、「ひとりはさみしい」とか細い声でつぶやいた。さみしい、という感情の芽生えを初めて口にした瞬間にいま立ち会った、ということに込み上げてくるものがあり、便座から下ろしていつもより少し強めに抱きしめた。ひとりで在ることの寂しさをこの子も知ったのだな、と思うと感慨深かった。それからは自分が外出の準備をしているたびに、さみしい、と言うようになり、家を空けづらくなった。
初めて娘が口にした言葉は「きれい」だった。まだ授乳中で、授乳後に抱っこしている時、窓の外に雨粒が光っていた。それを見て自分が綺麗だね、と言ったら、真似をしてきれい、と言ったのだった。驚いて聞き返しても、それ以上はなにも言わなかった。そのときは意味がわからずただ真似をしただけなのだろうけど、初めての言葉が「きれい」だったことは、幸先がいいような、彼女の今後の人生をなにか綺麗なもので照らしてくれているような気がして嬉しかった。実際は綺麗なことだけではない世の中で、なるべくそちら側に目を向けてくれたら、と思ったことを覚えている。