清水文太が子供服ブランドに込めた、カラフルな未来
いろんな色の感情と生きる
「男の子も、女の子も、誰でも着ることができる服であること。隔たりなく、大人も含めてみんなが着ることができる服を作りました。単調な言葉かもしれないけど、明るくなる服ってなにかなって考えたんです」
スカイブルー、レッド、ホワイト、パープル――さまざまなポップな配色で構成されたTシャツは、ストライプの太さもバラバラで、色もさまざま。楽しく個性的で、どこか自由だ。
「もともと自分は色を扱う仕事をすることが多かったので、そこと子供をつなぐことができたらと思ったんです。最初は機能的な部分とか汚れやすいとか、そういうものを考慮して作らないといけないかなと思ったんですが、やっぱり自分が伝えられることといえば、“色”の発信だということにたどり着きました」
清水文太といえば、19歳から〈水曜日のカンパネラ〉のスタイリングを担当し、そのずばぬけたセンスで存在感を放っていた。その後も、多くのアーティストや著名人のスタイリング、ベネトンをはじめとしたブランドのアートディレクションをてがけ、常に彼の作品には注目が集まる。
そのクリエイションのキーとなるのが、独創的な色の使い方だ。彼の織りなす色彩は、エクレクティックで、大胆で、カラフル。
「『色と生きるを作る服』という名前だけをきくと、子供たちを置いていっているように聞こえてしまうかもしれません。でも伝えたいのは、世の中にはいろんな色があっていいんだよってこと。10代の子どもたちや、もっと下の子たちに知ってもらいたいんです。ぼくは人の感情にも色があると思っています。いろんな色の感情と一緒に、生きるっていう行為を作っていこうという意味を込めました」
紫色の髪で通った児童館のバイト
当初、このプロジェクトは大人服のファッションブランドの企画だったそうだ。話をもちかけられた清水はまっさきに、「大人服ならやりません。子供服ならやります」とカウンター・オファーをした。
「自分がやるのであれば、そこに意味がなければやりません。子供服であれば、それができると思ったんです。自分は恵まれた環境で生まれたわけでもないし、家がお金持ちだったわけでもありません。社会のハードルとか、お金のハードルとか、仕事のハードルとかを感じながら生きてきました。そんな自分だけど、これまで助けてくれる人にたくさん出会い現在があります。社会への恩返しじゃないけど、自分がいまできることをできればと思ったんです」
そう語る清水は、定時制高校に通いながら、児童館で1年間アルバイトとして勤務していた経験をもつ。そこでの体験が清水に大きな影響を与えた。
「当時は髪を紫に染めていて、帽子をかぶりながら勤務していました。ある日、帽子からはみ出ていた髪の毛を見て子どもが、『文太、どうして髪がムラサキなの? 絵の具でもかけたの?』って。髪を染めるという行為をしらない子どもの発想ってなんて自由なんだろうって思いました。往復3時間ぐらいかけて児童館に通っていたんですけど、それが苦にならないくらい子供たちと遊ぶのがたのしかった。あんまり精神年齢が変わらないからかな(笑)」
一方で、清水は家庭や学校に問題を抱える子どもたち、社会に馴染めずそのまま大人になった人たちも見てきた。
「児童館の仕事を通しても実感しましたが、世の中にはいろんな子がいて、さまざまな環境で暮らしています。困っていることや悩みとかもそれぞれ抱えながら。施設に入っても、どうやって生きたらいいかわからないまま大人になって、生活保護になったりする子も多い。自分もそれに近しい状況になったこともあるので、大人になってからなにかできるかな、とずっと考えていたんです。児童養護施設に入っている子たち、入れなかった子たち、大人になっていわゆるアダルトチルドレンの状態で色のなくなった世界に生きる人たちもいるんだよって、発信できればと思います」
そんな思いが込められた「色と生きるを作る服」の売上の一部は、「児童養護施設に入れなかった子どもや若者を支援する団体」や「児童養護施設の退所者を支援する団体」に寄付されるという。
「大きな団体に寄付するより、適切な場所に適切のお金が届くのが一番よい」と考える彼自身がその団体を選ぶ予定だ。
清水文太の現在とこれから
スタイリングやアートディレクションの仕事をしながら、清水は音楽活動を2019年末にスタート。突如、ファースト・アルバム『僕の半年間』をリリースし話題を集めた。作詞・作曲からサブスク配信まで自身で担当したという清水は、常にそれまでの安全圏にとどまらず、自分を更新し続けている。
「音楽はこれからもっとやっていきたいこと。最近、お腹からくる低音が足りないなと思い、和太鼓をはじめました。先生には『身体の力を抜け』って言われるんです。最初は肩肘張っている感じだったんですけど、少しずつ呼吸法とか学んでいくうちに、ものすごく身体が軽くなりました」
社会の常識や価値観が一変した新型コロナウイルスによるパンデミックは、19歳から走り続けてきた清水にも少なからず影響を与えた。
今年24歳になる清水は、現在都心から少し離れた地域に暮らし、ゆっくりとした時間の中で生活している。
「10代のころは仕事をすることに必死で、『やらないと』っていう観念が強かった。それによって人を傷つけていたかもしれないし、人に厳しくあたっていたかもしれません。コロナになって、最初の緊急事態発言が発令された2カ月間はずっと家にいました。タスクが極端に減ったことで、それまで緩急なく過ごしていたということを実感しました。それまでは仕事もプライベートもタスクがつまっていて、5分刻みで動いていました。そのときはそれでよかったんだけど、今後人生を歩んでいく上で、10年後、20年後、30年後を考えたときに、このペースで生きるより、いまできることを順序踏んでやって、少しずつ木々を育てるように生きるほうがいいと思えるようになりました。これまでは、小さいお花畑のなかだけでせっせと水をあげていたような感覚ですね」
最後に今後清水が挑戦したいことはなにかと尋ねた。
「10代のときに、金銭的な面や環境的な面で、やりたいことがあってもやり方がわからず、フラストレーションを感じていました。近い将来、例えば、絵を書いたり、服を作ったり、ライブをしたり、やりたいことがあるけれどできる場所がないという子供のためのスペースを作りたいと思っています。大人が介入しすぎないで、特定のコミュニティだけに偏らない、ゆるやかな繋がりで集まることができるような空間。そんな場所を作れたらいいなと思っています」