お腹が大きくなってきてから、こうして見知らぬ人と接することが増えたように思う。私が見知らぬ子連れのひとにデヘデヘと熱い視線を送っているせいもあるけれど、それに限らず見知らぬさまざまな人の優しさに出会うことは、お腹が大きくなってから明らかに変化した景色だった。特に移動の時間は、わたしのお腹を見てにこやかに話しかけてくれるひと、さっと席を譲ってくれるひと、何も言わずに駅で降りるフリをして実は席を譲ってくれているひとなど、見知らぬ人から受け取った優しさは沢山あり、その度に素直に嬉しかった。しかしこうしてささやかな優しさに出会うことが増えたのと同様に、ささやかな世知辛さに出会うこともあり、先日妊婦の女友達らと会った時は、そんな話になった。このお腹を見るなり満席の電車は目を閉じて眠りはじめたとか、急いでいるのか気にせず一目散にぶつかってこられたとか、いろんな経験を友人ら一同あるあると頷く。だからこそ、見知らぬ人から受け取った優しさは、バトンのように次の見知らぬ人に渡しまくりたいと思う妊婦は多いのではないだろうか。
ゆえにお腹が大きくなってきてから、様々な場面でこれまで以上に目に入るようになったのは、子連れのひとだけではない。それはお年寄りや足腰の悪い人や障がいのある人など、健康な若い人のようにサクサク歩けない人々である。自分がサクサクいけないことから擬似的に実感を伴って想像するようになったのもあるし、彼ら彼女らの導線と妊婦や子連れの動線はやや似ているので、以前にも増して気になるようになった。彼らもまた、見知らぬ人の優しさを受け取ることもあれば、ささやかに他者から向けられた厄介さを、無意識のうちに、ときにダイレクトに、受け取っているのではないだろうか。
しかしいくら想像してみても、実際その人の身になってみないと分からないことってやっぱり沢山あって、いざ自分がその状態になってみてはじめて、身体的に、精神的に、理解する。そうやって自分が初めてその立場になって鮮やかに分かることがあればあるほど、他者というものは根本的に理解できないものなんだなとあらためて思う。特に、痛み、悲しみ、苦しみ、そういった類いのことは、いくら分かろうとしても当の本人にはなり得ないし分かりきれない。それでも、だからこそ相手に対して必要なのが「想像力」なのだと思うし、想像して寄添うことを諦めたくはないと思う。例えば妊娠、出産、流産、中絶、不妊など、どれをとっても相手あってのことであれ精神的肉体的な痛みや悲しみを伴うのは当の本人なわけで、その選択やおかれた状況は本人以外に知り尽くせない。それらの事に対し、他者が分かったような気になって、それが想像力の欠如とも気付けずに発する無邪気な発言は、やはり度々出会うわけで、その度に丁寧に説明することにしんどさを感じる。だけど、そこも諦めちゃいけない。それについてはまた今度に。