他者の力を借りるスキルも大切 ― 体が教えてくれること:第3回
他者の力を借りてみる
前回ご紹介した階段下りは孤独な一人遊びですが、体をコントロールしようという意志を手放すことが、他者を招き入れることにつながることもあります。障害のある人の場合であれば、それは「介助」ということになりますが、そうでなくても、同様の体験をすることができます。
例えばブラインドラン。アイマスクをつけて、伴走者と1本のロープを一緒に持ちながら走るのですが、実際に体験してみると、いかに普段の自分が体をコントロールしようという意志でガチガチになっていたかを実感します。アイマスクをつけた最初は、自分で段差や障害を知覚しようとがんばりすぎてしまうので、恐怖心が勝ります。でもあるタイミングで伴走者とのあいだに信頼関係が生まれると、「この人に自分を預けよう」という大らかな気持ちが生まれる。自分を手放して、伴走者に任せて走る感覚は、ひとりで走るのとはまったく違う、思いがけない開放感をもたらします。
この「他者の力を借りて実現する」というのも、通常の教育ではあまり重視されないことかもしれません。何しろテストでこれをやったらカンニングになってしまいますから。もちろん、個人の能力を高める学びも重要です。でも、私たちがそもそも思い通りにならない要素を抱えている以上、他者の力を借りるスキルもまた重要です。体を通して、自分の身の預け方も学ぶことができます。
体を授かる
実はこの2018年7月に、初めての絵本を出版しました。タイトルは『みえるとかみえないとか』。3年前に、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という新書を出したのですが、これをベースにして、ヨシタケシンスケさんが絵とストーリーを考えてくださいました。
見えないことがテーマになってはいますが、視覚障害者は一瞬しか出てきません。舞台は何と宇宙。宇宙飛行士が、とある星で目が3つある人に出会い、「うしろが見えないなんてかわいそう!」と障害者扱いされるところから、さまざまな違いに思いを馳せていくというストーリーです。デリケートな話題を絵にしていくヨシタケさんの力には脱帽するばかりだったのですが、中でも感動したのが、神様と思われるおじいさんが、生まれてくる子どもひとりひとりに、体を授けるシーンでした。舞台は工場のようなところで、1列に並んだ子どもたちが、順番に自分の乗り物=体を与えられていきます。まさに「体の思い通りにならなさ」を描いたシーンです。
三輪車をあてがわれる子もいれば、一輪車の子もいる。さっそくタイヤが取れてしまった子もいれば、陸上なのに船型の車に乗っている子もいる。にぎやかな絵にはこんな言葉が添えられています。
「からだの とくちょうや みためは のりもののようなものだ。『その のりものが とくいなこと』は かならず あるけれど、のりものの しゅるいを じぶんで えらぶことは できない。」
体を選べない、というのはかなり重い事実です。思い通りにならなさの中でも究極のものでしょう。でもだからこそ、優劣ではなく、それぞれの乗り物ならではの苦労や乗り心地をお互いに教え合う、という方向にストーリーは進んでいく。「おなじところを さがしながら ちがうところを おたがいに おもしろがれば いいんだね。」そう言って宇宙飛行士はその星をあとにします。私たちが生まれた時からそこにあって、死ぬまで付き合わねばならず、自分を超え出る可能性も、思い通りにならなさも、まるごと私につきつけてくる体。体という身近な存在について考えることは、個人の能力を最大化することに焦点をあててきた従来の教育の、ちょうどネガの部分に気づかせてくれます。
がんばることは大切だけど、どうしたってうまくいかないことや、誰かの力を借りなければできないこともある。単なる負けではない仕方で、ままならない自分を許す懐の深さを、体とともに学びたいと思います。