体は思い通りにはならない ― 体が教えてくれること:第2回
「思い通りにならないこと」と「うまくやる知恵」
体が教えてくれることとは何なのか。ひとことで言うなら、それは「思い通りにならないこと」と「うまくやる知恵」です。これが、体を研究対象としている私の実感です。
もちろん体がなくては、私たちはいかなる思いも実現できません。でもその一方で、体は私たちの思いを完全に叶えてくれるわけではない。跳び箱を跳びたいと思っただけで跳べるわけではないし、こんな顔になりたいと願ったら翌日そうなっている、というわけにはいきません。体とは、私のものでありながら、完全には私の思い通りにはならないものです。おそらく、自分の体に100% 満足している人というのはいないのではないでしょうか。顔かたちや能力についてもそうでしょうし、願ってもいないのに病気になったかと思えば、否応なく老いを迎え、最後には生きたいと望んでも死しか選ぶことはできない。体について考えるとは、究極的には、この思い通りにならなさについて考えるということに他なりません。
学びというと、一般にはできることを増やすことだと思われています。学校教育の中でほぼ唯一、体について学ぶ科目である「体育」が、まさにそうです。能力を伸ばすことは、それはそれでもちろん重要なことです。でも同時に、生きていく上では思い通りにならないこともたくさんある。その事実に対する向き合い方を子どもに教えることも、重要なことではないかと思っています。
イギリスの詩人ジョン・キーツは、解決できない状況に耐える力のことを「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼びました。まさに負の力。通常の教育が重視するポジティブ・ケイパビリティだけでは、思い通りにならないことにぶち当たった時、すぐに折れてしまったり、爆発してしまったりしかねません。同時にネガティブな能力を身につけることで、初めて人はしなやかに生きることができます。実際、障害のある人と関わっていると、思い通りにならないことに対する彼らの潔さに驚くことがあります。目が見えなくて自動販売機のジュースを選べない時、適当にボタンを押して「運試し」代わりにしている人。目も見えず耳も聞こえないけれど、カバンに伝わる振動で花火を感じている人。「思い通りにならない」の先に、「なるようになれ」の強さや、「なんとかなるさ」の明るさを感じることさえあります。
自分を超えていくもの
「 なるようになれ」の強さや、「なんとかなるさ」の明るさ。確かに、「思い通りにならない」という状態は、「思い通りにコントロールしよう」という意志を前提にしているわけですから、それを手放すことによって別の付き合い方が見えてくる場合があります。思い出すのは、子どもの頃によくやっていた一人遊びです。一人遊びといっても単純な遊びで、全速力で近所の公園の階段を駆け下りるだけ。その時、一段抜かしをして、より勢いがつくようにします。そうすると、最初は「階段を下りている」という感覚だった運動が、「足が勝手に動いている」になり、最後は「もう止められない」というスリルに突入していくのです。
元々は自分の意志にもとづく能動的な運動だったはずのものが、勢いづくにつれて私のコントロールを外れ、まるで階段が足を動かしているかのような自動運動の状態になる。体が自分を追い越していくようなその感覚は、ちょっと怖くもあったけれど、同時に大きな快楽を与えてくれる経験でした。そんな体を手放す快楽に没入する一方で、当時の私には吃音がありました。しゃべろうとすると「いいいいいのち」のように同じ音を繰り返してしまったり、急に音が出なくなったりするのです。吃音における思い通りにならなさに苦しみながら、他方では階段を全速力で下って自分の体を暴走させて楽しむ。体という自分を超えていくものの輪郭を、何とかとらえようとする私なりの研究だったように思います。