梅雨入りしたばかりの曇り空の朝、いつものように朝食をすませて片付けをしていたとき、「あと数日だと思ってください、と先生に言われた」と義母から泣き声で電話があった。ここ数年闘病していたから心構えはしていたはずだけど、あと数日と言われて、胸が締め付けられた。数年のあいだ、治療しながらも徐々に弱っていった義父が、先週ついに歩けなくなったと聞いていたので、翌日に天草に帰る夫の飛行機を手配していた。電話を切ったあと、いつものように作業を始めた夫の後ろ姿がいつもよりも小さく、固まってみえた。明日の飛行機はキャンセルして、今日すぐに帰ったら?と言うと、振り向いて頷いた彼の顔はいままでに見たことがない、叱られた小さな男の子のような表情をしていた。すぐに飛行機の便を調べ、羽田まで送り、自分もいつでも飛行機に乗れるように準備を始めた。打ち合わせや撮影を予定していた仕事先にメールや電話で延期やキャンセルの相談をしたり、締め切り前の原稿を急いで送ったりした。夕方到着した夫の電話で義父の様子を聞き、翌日も電話で相談し、結局自分と娘は翌々日に帰ることになった。自宅療養していたから、実家に着いてすぐに義父のそばに駆け寄ると、訴えかけるような強い眼差しでじっとわたしを見ながらなにか言葉を発した。耳をそばに寄せてみると、びょうきに、なってしもうた、と途切れながらなんとか言っているのが聞き取れた。そうだね、きついねと頷き、娘も近づけると、いままでに見たことがない義父の姿に驚いたのか、すぐに横のリビングに行ってしまった。自分はしばらく横にいて手を握っていると、今度はさっきよりも聞き取りやすい声で娘のそばに行ってあげなさい、というようなことを言われた。病気になってからも、いつも自分たちのことを気遣ってくれていたが、こんなときにも変わることがない義父の優しさに触れ、自分が同じ立場になったときにこんなふうに気遣えるだろうか、と思う。あまり疲れさせてもいけないと思い、離れて様子を見ていると、手を宙にかざしながら、長い手をゆらゆらと揺らし、一点を見つめ、しばらくすると眠り、という状態を繰り返していた。もう自分たちには見えないなにかと半分繋がっているようだった。それから数日、同じように少し会話して、また半分眠るような状態が続き、食事も水も摂れなくなっていた義父は、日を追う毎にだんだんと弱っていった。自分が来て3日目の夜、もうほとんど会話ができなくなっていたけど、義父の手を握りながら、しばらく横に座っていたら、突然とてもクリアではっきりと力強い声で「あんたも早く帰りなさい」と言われ驚いた。声を出すのも大変なときだったから、強い言い方になったせいだろう、わたしは邪魔だったのかと一瞬悲しくなった。困惑しつつ、もう少しそばにいさせてほしいと言うと、ただじっと目を見つめるだけだった。少し経って落ち着いて考えたら、わたしの仕事が忙しいことを案じて、自分のことはいいから早く仕事に戻りなさい、という意味だったのだなと気がついた。毎回実家に帰る度に、「倫子ちゃんも忙しいだろうに帰って来てくれてありがとう」と言ってくれていたことを思い出し、本当に義父の気遣いが変わらなくて驚いた。