実家に帰ったのは8ヶ月ぶりだった。お盆に帰るのも自粛される方がたくさんいるなかでどうしようか迷ったが、直前の1週間は外出せずに家族だけで過ごしていたし、いつも新幹線を使っていたのを車で移動することにして決行した。とくになにをするわけでもないが、ただ両親と3食をともにし、御詠歌をあげ、お墓まいりをしたり、ひととおりお盆の儀式をしたら少し気持ちが落ち着いた。 コロナ渦で仕事は減少したが、新しい写真集とこの連載をまとめた写真とエッセイの本を出すことになったため、この数ヶ月は編集したり、加筆修正する作業の時間に十分に充てることができた。それに伴い、ここ3〜4年分の写真と映像を全てじっくり見返すことになったのだが、いまの生活とは真逆の移動を繰り返す日々だったことを思い出し、随分と状況が様変わりしたことをしみじみと実感した。国内外の出張もあったが、実家にはこの数年仕事も兼ねて平均2ヶ月に一度は帰っていた。過去の写真を見ながらまた旅行したいな、という気持ちになるよりも、各地に住んでいる両親や義母、友人に会いたいという気持ちが先に立つ。こんな状況になるまえは、会いたければ自分が会いにいけばいい、と思っていたが、そんな自由があったことがいまとなっては貴重なことだ。それを経ての久しぶりの実家でお盆だったから、自分の心持ちひとつで見慣れた景色が違って見え、噛みしめるように数日過ごしたが、娘はわたしの心中など知るよしもなく、普段の生活と変わらずに元気よく遊び、時々ぐずったりした。一緒にいることで余計な感傷に引きずられそうな自分を引き戻してくれたことがありがたかった。 そんな彼女はぐずって泣いてひととおりわがままを言ったあと、あまえたい〜と言って抱きついてくることが近頃よくある。ストレートにあまえたい!と言われるときもあって、そんな時はわかりやすくて助かるのだが、本人もなぜぐずっているのかわからない時もあるようで、最終的にあまえたかった、とつぶやき、言われて自分も気づく、を繰り返したので、最近はぐずりだすと抱きしめるようにしたらすぐに収まるようになった。背中をトントンしながら自分がぐずって泣いて収まりがつかなかった幼い頃を思い出す。自分もただ母の関心をひきたくてわがままを言っていたこともあったのかもしれない。いつのまに自分はそういった感情を抑えるようになったのだろう、と考えてみる。遠回しな表現でその時々に近くにいた家族や友人に甘えていただけで、いまもあまり変わらないのかもしれない。自宅に帰る前日、父と喧嘩になった。内容は割愛するが、結果的に父を強い口調で責めたことが後味が悪かった。自分のことをわかってほしいけれどわかってくれないことに苛立った。それは甘えたい気持ちの裏返しなのか?と自分に問うてみる。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。大人になった自分でも、よくわからない気持ちを持て余した。ただ寛容な気持ちになれなかった自分が厄介で嫌になり、素直にあまえたい!と叫ぶ娘が羨ましいような気もした。