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デザインをテーマに9つのワークショップを開催「クリエイション・キッズ・ラボ」
自分の“好き”を見つける絵本
感性を刺激する子ども向けワークショップも!「水と土の芸術祭2018」新潟市で開催
「シンプルの正体 ディック・ブルーナのデザイン」展、巡回展最後の展覧会が横浜赤レンガ倉庫で開幕!
8月:芸術家『アンディ・ウォーホル』
05 母性とやら
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05 母性とやら

グラフィックデザイナーの長嶋りかこさんが、妊娠して日々変化する体から、今まで見えなかったことに日々出会い、新陳代謝していく景色を綴るエッセイ。 わたしは子どもが苦手なほうだ。三人兄弟の末っ子で、12人いる従兄弟達のなかでも私が一番下だったことで、自分より年下の人をどう扱っていいのか分からない時期がけっこう長かったように思う。その頃に子どもを可愛いと思った記憶がないし、欲しいとも思わなかった。しかし、いつしか兄に子どもができ、姉に子どもができ、どの甥っ子姪っ子もどことなく私の顔に似ているような気がして、自然と自分の幼少期が重なり、その存在を他人事とは思えなくなって、この不可思議な存在を愛おしいと思うようになっていった。 あるとき高速道路のサービスエリアで、誰がこんなの買うんだろうと思うくらいこれまでだったら見向きもしなかったような、つぶらな瞳の白いふかふかな小さな猫のぬいぐるみとふいに目があって、びっくりするほど無性に「ほ、ほ、欲しい!」と思ったことがあった(そして抑えきれず購入)。それから私は、小指の爪ほどの小さなヒヨコのぬいぐるみや、やたらリアルな手のひらサイズのパンダのぬいぐるみなど、小さくてつぶらな瞳のムクムクしたものに出会うと気持ちを抑えきれず購入すること、数回。こんなもん誰が買うんだよと思っていたものを自分がまんまと買っている状況がなんかヤバい気がして誰にも見せたことは無いのだけれど、このことを、私と同じく子どもの扱いがそんなに得意ではない女友達に話したら、彼女の反応は目を見開いて「すげえ分かる」だった。その時は、お互いの水面下でチョロチョロと湧き始めたやり場のない何かに、これがあれか母性といわれるやつなのか?と勘ぐった。時は経ち、そんな彼女も先日子どもを産んだ。まだ慣れない手つきでフニフニの子を大事そうにだっこしていて、一日中この姿勢だからまじでキツイわと疲れた表情で苦笑いつつも、子に向ける眼差しからは、二人の間にしかない甘やかな関係を感じる。そして見慣れた女友達の、見慣れぬこの風景から感じるものは、まさにこの二人の間にしかできないものであることも感じて、いつか来る自分の新たな風景が待ち遠しくなった。 身ごもってからわたしは度を超えて、飼い猫への愛情が極端に確実に増している。もともと動物は好きだけど、もう、猫を見るたび、撫でるたび、鳴かれるたび、舐められるたび、だっこをせがまれるたび、ゴロンと床に寝転んでこっちを見られるたび、こつんとぶつかってこられるたび、匂いを嗅ぐたび、その度に、身体中からぶわっと溢れてくる愛情が止まらない。ちいさいおでこ、つぶらでまっすぐな瞳、むくむくのちいさな”おてて”と”あんよ”、もう見るもの全て赤ちゃんのような気がして、もはやネコの名前が「あかちゃん」に差し変わっていることもあり、抱っこしてすりすりして「あーかちゃん♡」と言っている私からは、前のめりな何かが現在たぷたぷに満タンを超えむしろ垂れ流し。そしてこれは男性にも同様のパターンがあるようで、子どもが大好きなスタッフのカワミナミに関しては、ありがたいことに子が待ち遠しいのか、彼が猫を抱きかかえる時の抱き方およびその揺らし方を見る限り、最近はもう完全に猫用ではなく人用の所作になっている。 子どもの扱い方は、正直いまもそんなによく分かっていないし、たぶん特にうまいわけでもないし、今でも甥姪に面倒くさくなることは全然ある。だから、”本能”だと俗にいわれる母性を当然のように全ての女性に在るものとして突きつけられると甚だ疑問だし、あくまで母性とやらは人それぞれであって、環境によってその人なりに導かれたり体得していくものなのではないかと思う。ちなみに先日近況を話し合った同じく妊婦の女友達は、はっきり自分は子どもを特に好きじゃないことを分かっていたものの、猫を飼い始めてから自分を頼ってくる弱い存在に自分のなにかが変わったそうだ。ものすごく分かる。私の場合も、猫の存在と、兄姉の子どもたちの存在、それから自分の仕事場で数名のスタッフを抱えていることも関係がある気がしている。スタッフに関して言えば、やっぱり人を雇うと個々の人生のことを考えるし、一緒に仕事をするからにはそれぞれを活かすためにも個々の良さを伸ばしたいと思うし、それはやや子育てに似ているのかななんて思うのです、まだ子育てをやったことがないから分からないけれども。 世の中にはエスカレーター式に「当然こうあるべき」という型がたくさんあって、気づいたら自分もそのエスカレーターに乗ってた、みたいなことになりかねない。同様に、何でも「母性」で片付けられると母という役割は型にハマるし非常に押し付けがましく厄介だ。しかも「本能」って言葉とセットになっているから、あたりまえに母としてこうするでしょ、という更新のない感情的な情報がつきつけられる。だけど「母性本能」って言葉は学術用語じゃなくて通俗的に使用される俗語らしいです。ってことはやはり母性は本能ではなくあくまで社会的に構築される“愛着”なのでは。少なくともわたしの場合は、自分の体と環境により導かれる変化によって、“自分より弱いものに向けるまなざし”がうまれてきたことは、確かだ。  

2018.08.20
最新キッズトレンドが満載の〈Playtime Tokyo〉が間も無く開催!
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女優「のん」も出演決定!「アンサンブルズ東京」東京タワーで開催
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そんなふう 36
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そんなふう 36

先月すごく久しぶりにひとり海外出張だった。フランスに現地3泊機内1泊だったのだが、子供と2泊以上離れたことがなかったのでどうなるか心配だった。しかし、とくに母の不在を嘆くわけでもなく、ぐずることもなく夫と二人で機嫌よく過ごしていたらしい、と帰る前日に電話で聞いた。少し拍子抜けしたけれど泣きわめく日々が続くよりはずっといいよな、と思いつつ自分が逆に寂しい気持ちだというのがなんだか情けないような気もした。帰りの機内でも早く子供に会いたい気持ちが募り、なんだか落ち着かないまま過ごした。着いてからもはやる気持ちを抑えながら、空港に迎えに来てくれているはずの二人を探す。タクシーが連なって停車している後方あたりに見慣れた車を見つけた。夫が手を振るのを遠目で確認し、その下にちょこんと座っている子供を見て安堵した。二人に向かって「おーい」、と手を振る。子供はしばらく視線を彷徨わせていたが、私の方を見て固まった。そしてこちらに向かって走り出した。子供の目線に合わせて自分もしゃがみ、両手を広げて待ち構える。保育所から帰ってきたときの、いつも玄関から廊下を走ってくるときの表情とはまったく違う、ものすごく真剣な眼差しでこちらを凝視しながら一目散に走って来る顔を見て、やっぱりあなたも寂しかったんじゃんか!と確信してふたりでがしっと抱き合った。そのあとしばらく背中をばんばん叩き合い、お互いの存在を何度も確認し、長いあいだ離れなかった。

2018.08.16
「スタジオジブリ 鈴木敏夫 言葉の魔法展」金沢21世紀美術館で開催中
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